愛する「いすみ米」のために、おにぎり屋をオープン
「ITは日進月歩で進む世界。その中で迅速な意思疎通ができなくなった」 。
退職のきっかけは、勤めていたIT関連会社の社長が倒れたこと。
当時役員として会社の中枢を任されていた坂本さんは、自らが置かれた状況をこう話します。
そして、入社時20人だった従業員が100人規模となり、自社ビルを構える企業に成長した姿を見て考えます。「自分はここでの仕事をやりきった。これからは自分の道を進もう」 。
しかし、「今やめて、何をすればよいのか」、不安が頭を過ります。移住後、本業の傍ら、米作りを手伝いながら、いすみ米の販売まで行い、本職では味わえなかった「物を作る楽しさ」も感じていましたが、「利益はほとんどなかった。これでは自分で飯を食べていけない」、自らが進む道が定まらないまま、3年の月日が流れていました。
転機が訪れたのは、子供の運動会で食べたおにぎりが、あまりに美味しく思った直後に、駅構内で「おにぎり屋」を目にした時。「米そのものを売るのではなく、おにぎりにして売る」、今まで考えていない発想でした。
「これならいける」、そう直感した瞬間、「頭の中が全ておにぎり屋になった」と話します。長年、目の前を覆っていた霧が晴れた瞬間でした。
おにぎり屋に人生のレールをつないだ理由は、もう1つあります。移住して10年が経ち、坂本さんの周辺でも、半数の農家が離農しました。
「自分が愛した風景が無くなってしまう」、そう危機感を感じた坂本さんは「作った米を使う人がいれば作り手はいなくならない。俺が買い取るから、続けて欲しい」と懇願。
いすみ米と、地域を守るための挑戦でもありました。
2011年5月31日、退職。同年9月1日、いすみ市から通える、1番の人口集約地である、千葉市千城台にお店をオープン。
開店までの3か月は、各地でおにぎりを食べ歩き、各地から具材を取り寄せ、いすみ米との相性を徹底研究。「俺は凝り性だからね。何でも徹底的にやらないと気が済まないんだ」、店頭に並ぶおにぎりに入った具材の多くは、この3か月で決まった、今でも続く「自慢の味」です。 |