祭りのはじまり
起源について裏づける資料はなく定かではありませんが、大原町貝須賀にある鹿嶋神社の神輿が修理された際に発見された屋根板に「貞享4年(1687年)」と記した大工の書き付けがあったことから、今から300年以上前にすでに神輿があったことが確認でき、祭礼も なんらかの形で行われていたものと推測できます。
※大井瀧内神社奉納絵馬
※大原地区十社の神輿が揃って渡御している絵馬 |
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大井地区の瀧内神社に奉納されている二面の絵馬からも1840年代当時、祭りが年1回の最大の楽しみとして賑わっていた様子が伺えます。
「何を質に入れても祭りの仕度を調えた」と言われるほど、どの家でも御馳走や酒を準備し、通りすがりの人にまでも振る舞ったそうです。 |
祭りの日程
秋季例祭として、旧暦の八月十三日〜十五日に行われていましたが、改暦により、明治6年より9月23日、24日、25日の3日間となり、大正2年からは9月23日、24日の2日間と定められました。
現在では秋分の日に合わせて2日間、2013年は9月22日(日)、23日(祝)に開催されました。
仕事などで地元を離れている人達もこの日ばかりは「マチ」のために故郷へ帰ってきます。
祭りの衣装
大正時代には「白丁に烏帽子姿でしづしづと波打ちぎわを汐ふみしていた」との記録があるように、神社の例祭として儀式に近かったようです。
神社で白丁を管理し、一家に一枚、つまり氏子である家の氏素性のはっきりとした者にだけ担がせ、担ぎ手の数も決まっていました。
大正末期より派手な手差しに腹巻き、白の股引へと変わります。
「役員は揃いの浴衣を着て尻はしょりをし、畳表に白い緒の草履をはき、祭りの行列を囲んだ。のど自慢のうたう祭り唄に合わせて前をいく百人程の踊り子たちのかけ声と手拍子が響き、役員のかざす日の丸が拍子に合わせてひるがえり、粛々と町を練り歩く姿は一幅の名画であった」と大原町史の記録にあります。
1940〜1945年の終戦まで、記録上は「物資食料不足のため祭りは中止」となっていますが、年に一度の娯楽であり、憂さ晴らしの場、士気を高めるために実際は祭りが行われていたそうです。戦後は衣装も黒の手差し、腹巻き、脚絆という今と変わらない祭りの格好になりました。
1973年千葉国体が開催された時に、開会式のアトラクションとして、大原の神輿が16社1200名で参加、全国に知られるようになります。
それを機に、「村祭り」から「大原はだか祭り」と呼ばれるようになりました。 |